1つ目のストーリーは、KATINがサーフィンの歴史そのものであるという話だ。
1950年代。
カリフォルニアからビックウェーブに乗るため、当時のパイオニアサーファーがハワイを訪れ始めたころのことだ。ハワイといえば、ノースショアではなくウェストサイドのマカハがサーフィンのフィールドだった時代である。
当時、1948年創業の「テイラー・ニイ」という仕立て屋がトランクスを作ったとも言われるが、時を同じくして、カリフォルニアにはボートカバーメーカーであった「キャンバスバイケイティン-KANVAS by KATIN」が、当時では、カリフォルニアでもほとんど見かけることのなかったサーファーから、海に入っても破れないショーツの製造を依頼されたことが、始まりだったといわれる。その1着をきっかけに製造を開始し、本格的なサーフトランクス・ブランドとしての歴史が始まった。
1960年代に入るとサーフィンはブームとなり、サーフィン産業も同時に拡大して現在に至るが、これらの写真が物語るように、サーフィンカルチャーを作り上げてきたカリフォルニアの地に、この「KATIN」のサーフトランクスが大きく寄与したことは間違いのない事実であった。
しかし80年代に入ると大手サーフブランドが台頭し、あまたのサーフトランクスが量産されるようになった。
大量生産による低価格化が実現し、有名サーファーたちのコマーシャル効果も相まって、KATIN(ケイティン)ブランドはカリフォルニアではその名は残っていくが、ここ日本において、若いサーファーたちへの認知は徐々に薄くなっていったのではないだろうか。
今、あらためてKATINを紹介できることになったのは、このあとに続く「第3のストーリー」と深いかかわりがある。
▼(写真CAPTION)ウォルターとナンシーはキャンバス地でボートカバーを作っていた。この地はカリフォルニアの広大なコーストラインにある栄えたオーシャンタウンであり、ボートも数多く存在していた。そこにひとりの青年が破れないトランクスを作れないかと相談に来たことがすべての始まりだった。
はじめてのサーフトランクスが生まれた秘話を話そう。KATINの生みの親、ウォルターはティーネイジャーのサーファーから、サーフトランクスの制作を依頼された。ボートカバーのビジネスを営んでいたウォルターとナンシーだったが、サーファーたちは当時、カットオフしたデニムジーンズで海に入っていたが、海から上がるときには糸もほつれてしまい、他にはけるものはないのか、との苦悩を話した。
その苦悩を、ボートの生地で作り上げたのがKATINのボートの帆生地によるサーフトランクスだったのだ。
そして、この依頼をしたティーネイジャーが、コーキー・キャロル。のちのプロフェッショナルサーファーの第1号のひとりである。彼が依頼したサーフトランクスは世界初のいわゆるサーフトランクスとなり、現在でもCORKY TRUNK として、その歴史的な1枚を現代に継承している。
KATINの歴史は、ひとりの日本人女性の手によって支えられてきたという話だ。
KATINは1954年にナンシーとウォルターという創業者によって製造が開始されたが、その後、1961年に当時、日本から移住し近くの工場で働いていた女性に仕事のサポートを依頼して以降、2018年の今に至るまで、ハンティントンビーチのKATINサーフショップでトランクスをハンドメイドで縫い続けてきた女性がいるのだ。彼女の名前は、SATO HUGGES-サトウ・ヒューズ。ブランドとしても拡大しているKATINにとっては、現在のプロダクトは創業以降、工場での縫製に代わっているが、SATOの作るカスタムオーダーショーツは、KATIN SURF SHOPで購入することができる。
今年で御年90歳。今では体調のすぐれないことが多く、ビーチ沿いのショップでフルタイムで作業をすることもできなくなってきているという。ナンシーとウォルター亡き今、その歴史を守り続けた女性が、日本人であり、今も彼女がその製品とスピリッツを守り続けていることは、同じ日本人としての誇りである。