【 ドジ井坂 回顧録 】
書くか記憶に留めるか迷っていたところ、リビングのカフェサイドの本棚から、奇跡的にこの紙が挟まっていて引き当ててしまった。何か書いてよ、とドジさんが言っているようなので記録しておく。
わたくし、BLUER代表の田中は、月刊誌「サーフィンライフ」にて長期連載されていたドジ井坂サーフィンクリニックの、いち担当者であったに過ぎない。しかし、その実は、ドジさんの弟子のような存在であって、今に至るまで常時一緒に居たわけではないもののドジさんの海への意思を1つの形としておこがましくも継承している人間である。それは「海岸」への想いとという意味において。
編集者を辞めてからも、ご縁は続いた。サーファーを世に出し讃えるイベント「サーファーズアワード」の第1回目の司会をお願いしたり、海岸発展のための何かのアクションをちょこちょこと。何やら話が大きくなりそうたときには私に連絡が来ていた。
2020年。再びドジさんとコンタクト。「光明が見えてきた」ということだった。その情報を発信するためにフェイスブックグループの「海十山研究所」も開設した。しかし、パンデミックもあいまって、ことが再びスタックし今に至る。
まさか、ドジ井坂が亡くなるなんて。最も無縁だと思っていた。エネルギーの塊だったからドジさんが亡くなったのは受け入れ難い出来事だった。
今日、なぜか出てきたドジ井坂プロフィール。当時もらったもの。このプロフィールと照らし合わせ考える。
きっと、わたしも弟子である所以、つまり、カリフォルニアに渡ったときの感動が全てではないかと回顧する。
恐縮ながら、日本とカリフォルニアの対比を知る人にしかわからない世界感。彼の地、あの西海岸があまりに純粋な場所であるゆえに、日本の海岸がなぜこんなにおとなくして地味なのか、という感覚。
わたしもまだ若輩者ゆえに、うまく言葉には表せないのだが、
つまりは「日本人は、もっと開放されていい。海はこうやってエンジョイするといい。海と山で思いっきり遊べばいいんだからね」というメッセージなのではないかと思う。
燦々と太陽が照る海での感動を、多くの日本人と共有する。
これがドジさんの想いだったのであろうと回顧する。
以下、ドジさんとのメッセンジャーのやりとりの最後の記録。託された一文を記載。
『海も山も一年中遊べる情報発信を世界にしていきたいです。日本は海から山への移動は小一時間あれば十分いろいろな種目を短時間で体験することも可能です。
海のコアはもうどうでも良いから、海・海岸のファンが、少しずつ海岸で活動できる幅広い仕掛けをお願いします。Doji Isaka』
ドジさん、またあの世で!